カテゴリ:○二世帯同居( 7 )

今年の3月初旬に義父が倒れました。
(という話を、ここ10日程でまとめました。
数回にわたってお送りしてきました。)

259日。
259日。その2
259日。その3
259日。その4
259日。その5
259日。その6

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これからどうなるんだろうというという不安にさいなまれたその晩、
お夕飯前に義母に呼ばれました。
新しい主治医の先生(院長)に、
家に帰るように言われたとのこと。
点滴も最小限に、
排泄の管も抜いて、
出来るだけ自由に。
好きなものを食べて、
動けないけれど、好きな環境で最期を迎えるべきだと。
今、義母がこんな状況で、
義姉も嫁(ワタシ)も色々かかえている状況があって、
そんなのは無理だというと、
主治医「明日、死ぬってなったらどうする?」
って言われたそう。
義母「それなら、少々自分たちが無理をしても家に帰してあげたい。」
主治医「それが今ですよ。」
条件をいろいろ出してくれました。
帰宅して2週間は病院のベッド確約。
さらに最終4ヶ月後までは、主治医先生のもと診察(回診週2-3回)が受けられ、
必要であれば入院OK。
11月は帰宅してから残りの日数、めいっぱいの介護保険を使ってできる限りのことをフォロー。
ヘルパーさんは日に4回(排泄・食事・体位交換、何から何まで・・・)から様子見、
看護婦さんは日に2回(点滴入れるのと抜くのと、その他。)、
その他、
次々と提案してくれたようで。
リハビリの先生が義父の病室を訪れた際は、
「じゃ、ベッドに座って、ちょっと立ってみましょうか。」
って、無理やろって話だったのですが、
支えたら立てたそうなんです。
当面の目標は、
少しでも外気を吸てリフレッシュするため、
『車いすで少しでも移動できるようにすること』
になったようで、
なんと、リハビリの先生も平日は毎日来てくれることに。

なんだか、
1日で話が進み過ぎて、
キツネにつつまれたような気持にもなって。
その意見を大方、飲むことになりました。
あとは、
様子を見て都度考えていこうということで。
休日にはT氏も含め話し合って、合意。
週末には介護ベッド他いろいろ準備が整って、
義父帰宅。

その日は、
おりしも、ミー子の誕生日となりました。

じぃじ大好き、ミー子、
一番喜びました。

でも、
一部始終を見てきたミー子、
ちゃんとわかっています。
小さいなりに、理解しています。
賛否両論あるだろうけれど、
隠す必要はないし、それでいい。
ワタシとT氏の見解は一致しています。
優しいミー子のことだから、
最期まで、
そしてずーーーーっと、
大好きなじぃじで変わらない。
ワタシもT氏も、そう信じています。

********************

取り急ぎ、
まとめた内容は以上。
本当にいろんなことがあった、
259日の記録。

いろんな感情があってついていかないし、
問題も山積みなのだけれど、
さぁ、
これから、これから。
一日、一日。
前へ、前へ。








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今年の3月初旬に義父が倒れました。
(という話を、ここ10日程でまとめました。
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259日。
259日。その2
259日。その3
259日。その4
259日。その5

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義父の体調は最悪で、
どこで看取るか、
という話になっていたのがこのころ。
義母も入院してしまったことで、
早急に転院先を探していたのですが、
(隣市の病院だったので、義姉が通いにくい。
義父がその病院から早く出たいと言っていた。など・・・)
本当に本当に受け入れ先がなく、
(ケースワーカーさんの仕事ぶりも疑問だが、
ワタシとしては世間一般にそうであろうとは予測済み・・・)
主治医先生と、
もう長くないしそのままの病院で看取ろうかという話をしている矢先、
義姉の家の近所の病院に受け入れてもらえることに。
(療養というより、緩和ケアってなったかららしい・・・
当初、救急車で運ばれた病院にも緩和ケア病棟があったのだけれど、
そこは余命宣告+本人の署名捺印が必要だったとかで、断念。)
いろいろあって、
無事、
11/12、転院。
義母ヒトリでは無理なのでワタシも付き添って、
荷物をまとめ、
介護タクシーのストレッチャーで移動。
転院先の病棟は、
ワタシの第一印象、変な気が流れているなという感じ。
胃ろうのカップがずらーっと並び、
看護婦さんは常にビニールエプロンにゴム手袋。
たぶん、
歩ける人なんてひとにぎりいるかいないか。
決して環境がいいとは言えず、
生まれ育った市に帰ってこられたという喜びもおろか、
義父からまた苦情が出ないか?
とすぐに思ってしまった。
義母も同じだったようで、
「そういえば、前の病院でココに移るって決まった時に、
近くなったんだから、自分たちでしっかり看病お願いします、的なこと言われたわ。
ウチ(前の病院)からソコ(転院先の病院)に移ると、色々苦情が出るんで(モゴモゴ)って。」
え。
遅いやん。そんなの。
もぅ、
ワタシだってそんな状況、泣きたくなって、
一刻も早くそこから立ち去りたくて、
用事で遅れていた義姉が到着してすぐ、
その病院を後にしたのです。








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今年の3月初旬に義父が倒れました。
(という話を、ここ10日程でまとめました。
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259日。
259日。その2
259日。その3
259日。その4

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そんなこんなで、
義母は入院1ヶ月、全治3ヶ月。
せっかく、義父が療養型の病院に転院しようかとか、
家に帰ってくる方向で行こうかとか、話していた矢先。
義父はさらに不安定になり、
体調も悪化。
義母は金属のコルセットで固定され、
もぅ、3ヶ月は介護なんてできないとのことで。
義父のことは義姉、
義母のことはワタシ、という役割分担で、
病室に通ったり、
洗濯モノの行き来やその他諸々に明け暮れた10月でした。
家族(2F)の体調が悪くならなかったのがせめてもの救いです。
本当に、
奇跡のミー子とポンでした。

その1ヶ月で、
義父は食べられず、飲めずになってしまい、
肩からの高カロリー点滴を余儀なくされました。
排泄もうまくいかず、
管を入れることになり。
リハビリもなくなり、
本当に1ヶ月寝たきりでした。
(後で聞くと、
咳き込むので食事(お茶も!!)が無理になったとか。
回復する方向に持っていく治療・処置が他にあったのでは?と疑問。
実際、
休日のお見舞い時プリンやリンゴ(+おろし金)を持っていくと、
食べたそうにしたのですが、
看護婦さんが「ちょっと無理ですね・・・」なこと言われるし。)

一方義母は、
病室のゆかいな仲間たち(!同世代!同境遇!?)に囲まれ楽しく過ごしたようで、
笑顔あふれるゆったりした毎日を過ごされたようです。
骨休めって言ってました。
当初から車いす→歩行器で動きまくってたし。
義父のことについては心配が尽きず、
義姉からの報告を受けるたびにあーでもない、こーでもないと、
病室を見舞うたびに言われて閉口しましたが。
(看護婦さんにも病室の人たちにもこと細かに話していて、
こちらとしては開いた口もふさがらないという感じでしたが・・・)
牛乳(骨を強くする!?)とみかん(便秘予防)を2日に1度届ける日々でしたが、
10月末に無事退院。








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今年の3月初旬に義父が倒れました。
(という話を、ここ10日程でまとめました。
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259日。
259日。その2
259日。その3

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10月初旬のある朝、
介助を呼びに来たのは1Fに遊びに行ったミー子で、
「大変!!ママ、すぐ来て!!」
って感じだったのです。
義姉の旦那さんの運転で早朝に帰宅していたのは知っていたのですが、
T氏は仕事でおらず、
ポンをミー子に任せて、義父を介助に向かいました。
義母はなんだか怒っていて、
トイレをすぐしろだとか、
立ちなさいだとか、
義父には少々無理では?
という会話がそこでなされていたため、
ちょっとワタシは外そうと思って隣室で待ち、
終わったところで介助に入りました。
(もぅこの時点で義母に言うべきだったな。いろいろ。)

日中は義姉と出かけると聞いていたので、
2F(ウチ)はいつものように昼寝からの、夕方は図書館→買い物して帰宅。
18時前だったと思うのだけれど、
家に入るなり、義母の声。
急いで1Fへ下がると、
「呼んでもいなかった!!なんでおらんの!?」
と、倒れている義父母。
状況はすぐにわかりました。
義父のトイレ介助中に義母も一緒に倒れた(ぎっくりいっってもた)んだなと。
1時間ほどそのままの状態で倒れていたようで、
義母はなんとか這って携帯を取りに居間まで行き、
「義姉に連絡した!!」そうで。
なぜ、ワタシが怒られなあかん?
と思いながらも、
到着した義姉の旦那さんと一緒に義父を車いすに乗せ・・・
(T氏:ヘルニア、義姉:腰痛持ち・・・)
義父はもう1日自宅で過ごすことになっていたけれど、
義姉の旦那さんが病院に連れて帰ることになり、
義母はT氏が病院に連れて行こうとするも起きられず、
息苦しい故を救急案内に伝えると、
そのまま救急車呼びます、ってなって。
義母は、
背骨を骨折していました。








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今年の3月初旬に義父が倒れました。
(という話を、ここ10日程でまとめました。
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259日。
259日。その2

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そんな矢先、
義父が倒れたのは3/6早朝。
義母の叫ぶ声でT氏とワタシが飛び起き、
救急車を呼びました。
トイレに行く際に転倒し、意識を失ったとのこと。
救急車到着までに意識は戻りましたが、
体は硬直していました。
病院にはT氏と義母が付き添い、
ワタシは家でミー子をなだめ、
普段通り保育園に送ったのを思い出します。
その頃まだ育休中で、2ヶ月だったポンを抱えながら、
なるべく冷静に冷静に。
そして、
検査や色々なことが整っての、義父の手術が3/20。
あれ?手術までそんなに時間かかったっけ?
どう過ごしたか、ほとんど記憶にないですが、
術前・術中はT氏も仕事休んで対応したのを思い出します。


頭蓋骨を外して、
破裂してしまった箇所の修繕、
腫瘍を摘出する手術をしたところ、
その腫瘍が悪性リンパ腫とわかり、
(グレーが黒になった瞬間でした。)
血液内科のある隣の市の病院に転院。
放射線・抗がん剤治療を繰り返し、
内蔵への転移もあって、
さらに放射線・抗がん剤治療を繰り返し。
一応、
治療は終了、
という話をしていたのが9月中旬。


手術前後、
その後の治療中も、
意識も記憶もはっきりしているし、
口は回らなくなったものの口うるさいのは変わらないし、
家に戻る!!頑張る!!っていう気概は感じました。
片麻痺は残るものの、リハビリで杖での歩行が可能になり、
しょっちゅう誰かのところに電話かけてきて周りが閉口する、
なんていうのも、今となっては昔の話。
お見舞いもワタシタチが行けるのは週末だけだけれど、
デイルームまで足を運んでお話したり、
いろんなことを心配して涙ぐんだり。
甘いものが大好きで、
よく、シェイク飲んでたのを思い出します。


とにかく家に帰りたいという義父の希望もあり、
(食事が合わない、看護婦さんの態度(?)が悪いなどなど・・・)
週末帰宅を夏ごろからお試ししていました。
まぁ、
その度に色々振り回され、
都合をいろいろ聞いていたのですが、
T氏も忙しかったのもあるし、ヘルニアもあるし、
義姉の旦那さんに頼りっきりでした。
倒れた後、麻痺はありましたが、
手術後にリハビリを頑張って、
週末帰宅を始めた頃は杖で歩くこともできたのですが、
座っても斜めに傾くようになり、
車いすになり、
でも排泄の意思はあり、
トイレに頻繁に行きたがる義父を義母が介助していました。
義姉がいるときは義姉が、
おらん時にはにはワタシが大声で呼ばれ、
介助を手伝っていました。
(T氏は「そんなことせんでいい。
おかんひとりででできひんなら帰ってくるのは無理だ。」という意見でした。
ワタシも呼ばれれば行くけれど、いつもいつもっていうのは無理でした。
ワタシタチの生活もあるし(0才児おるし。)、外出だってするし。
少々冷たい気はするけれど、それも一理あると思っていました。)








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今年の3月初旬に義父が倒れました。
(という話を、ここ10日程でまとめました。
数回にわたってお送りしています。)

259日。

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あとは、
ログの庭に見境なく大量の野菜を植えては、
ワタシたちがログ使用時に収穫を頼まれていた件。
最初こそ収穫の楽しみがありましたが、
ほったらかし農法(いい意味!?いや、絶対悪い意味!!)で生え放題の雑草や、
虫さされの薬なんか全く効かない虫といかに格闘するか、
庭仕事をいかに早く少なめに済ますかだけが課題でした。
(妊婦でも授乳しててもそれは関係なしでした。
T氏はヘルニアのため、手伝う気はさらさらなく。)
野菜を配る宛ては、義母の友達。
そりゃ新鮮だけれど食べるところの少ない小さくて穴だらけで傷んだの野菜は、
うまいこと処理して食べるように押し付けられたり、
軽く新聞に包んだ得体のしれないモノもらうのが、
本当に恐怖でした。
(野菜-土-虫の構図は分かっていても、限度を超えていました。)
真夜中、シンク、コンロ、レンジフル稼働で下ごしらえしたり。
なんどもT氏に義父の野菜栽培縮小を訴えましたが、
(炎天下や真冬雪の中での作業も無理する必要ないなど。)
T氏が言っても無駄で、
花壇だったところにも気がついたら野菜が植えられるようになったり。
確かに野菜は助かるけれども、
うんざりでした。


でも、
もしかしたらそのころから蝕まれていたのかも!?というのが、
今年の2月中旬。
さすがに調子が悪く、かかった病院で脳に影が見つかったとのこと。
(これは後から聞きました。そんなんならすぐもっと精密検査したと思う。)
次の検査の予約を取って、いつものようにログに向かい、
雪の中、農作業、2週間。
ログから帰宅した直後、
3/1、ポンのお宮参りに行く予定(2Fだけで)にしていて、
行かない、行くの押し問答が義父母であって、
結局、写真だけ写ってくれることになったのですが、
(なぜか、ポンが長男だ、世間体(?)があるという理由で・・・)
義父はジャージ+サンダルで来ました。
たぶん、行く!!とにかく行く!!ということが先行して、
それ以外が考えられていなかったのか、
ログから帰宅した土付のそのままのカッコで来ました。
もぅ必死過ぎて、声をかけられる状態ではなかったです。
その後、検査で結構なサイズの脳腫瘍が見つかり、
そのままにしておくのは破裂の危険のある箇所もあるとのことで、
3月中旬には入院~手術が決まっていたようです。








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今年の3月初旬に義父が倒れました。
(という話を、ここ10日程でまとめました。
数回にわたってお送りします。)

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以前から、頭痛や体調不良を訴えていた義父なのですが、
病院が嫌いということや、
とにかく文句の多い人なので、
周囲は静観していました。
(オオカミなんとかという類の話です。)
高卒から勤めた会社を55でセミリタイヤして、
60(前?)で完全に退職。
ログ(義母の実家空家)で野菜でも作りながら暮らす、
(最初はこちらの家と行き来して、最終的には移住。)
って言っていたのです。
趣味はもともとなく、
近所付き合い、友達付き合いも聞いたことなく。
(どこか(高校?会社同期?)の同窓会には行っていたようですが。)
歯医者の予定が入っていると「忙しい!」という人でした。
(9:00からの予約でも30分前には行く。
8:15にミー子を保育園に送るのは無理、と言われたことあり。
因みに保育園は目の前。
特別何もない日なら、送るのは5分。
そして歯医者も自転車で1分。)
気性が激しく、
河内弁で何喋ってるかわからず、
運転が荒くて、(その他も!?)
下戸やけどパチンコ好き、
共通の話題は皆無で、
まぁいろいろ、
とっつきにくいと思っていました。
T氏に聞くとじいちゃんはもっとひどかったっていうから、
複雑でしたが。
(じいちゃん、お墓で待ってるよね。)
因みに、ワタシが2世帯同居を決める際に懸念になったのは義父ではなく、
義母の方です。
義母もなかなかパンチがある、関西のおばちゃんなのです。
(大阪の血はいっこも入っていないけど。)


義父は、
40代の頃に一度倒れて救急車で運ばれたことがあり、
その時には特に治療せずに退院したそうで。
その後、
特に詳しい検査もせず、ここまで来てしまい。
退職した頃から、
義姉の旦那さんに「おとうさん、多分頭おかしい。ボケが始まってる。」
と言われ、(義父には直接言ってないけれど。)
義母もことあるごとに「おとうさん、ボケてる。」
と言っていました。(これは直接。)
ワタシはあまり感じなかったけれど、
ミー子のお迎えを引き受けてくれた時に、
先生が渡した大事な大事な書類一式を廊下に落としてくる、
(本当に大事なものだったので、先生からtel有・・・
以後、大事な書類は義父には渡さないと決めた・・・)
その前の園のお迎えではミー子の大事な大事な『おしゃぶり』を落としてくる、
(最初は保育園の先生のせいにして、
telで抗議するって聞かなくて、
結局翌日、
送迎のために停めてはいけない駐車場で、粉々の状態で見つかって、
雨が降った日にお迎えを頼んだワタシが悪いことになった・・・
いや、お迎えを頼んだ日がたまたま雨だったのに・・・)
などなど、
紆余曲折ありまして。
それでもワタシの印象としては、
注意力がちょっと足りないのかな、ぐらいだったのです。








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